車歴
俺は今まで何台のバイクや車を乗り継いできたか考えた事もないけど一度整理してみよう
高校時代初めて買った(親父に買ってもらった)バイクはCB250エクスポート360°クランクの遅いやつ 友人が持ってた3・4年古いCB250に加速最高速共かなわなかった この時180°クランクの偉大さを知った 当時は絞りハンドルが流行っていたので当然俺も付けた しかしこのバイクは程なくして手放した 理由はゴキタンバイクに乗るお巡りさんに信号無視を見つかり逃げる途中転倒事故を起こしてしまったため 烈火のごとく怒った親父は俺の免許証をガスレンジで焼いてしまった 当時ビニール製二つ折の免許証が炎をあげて燃えていった記憶があるな
喪が明けて免許を再交付 すぐにミニトレ80を買った 近所の小さな車屋のオヤジとトライアルの真似事をして遊んだ この時のオヤジさんその後店をどんどん大きくして今じゃコーンズの代理店になってマセラティーも売ってる 山ほどあるコレクションにはDino206もある でもポルを買った時店に行ったらガキの車と言われた ドイツの車大嫌いらしい クソ爺
高校を何とか卒業(追出された?)した俺はすぐに就職(卒業式の翌日が入社式)それから2年間はバイクも車も縁の無い生活を送っていた しかし車の免許を取ったのを期に火がついてしまった
2年間貯金した金をはたいて買ったのが発表間もないスカイライン2000GTS ダンパーをコニーに替えて乗っていたけどL20エンジンのかったるい吹き上がりはどうにも我慢できなかった そこでCG個人売買欄に出ていたハコスカセダンのGTR(PGC10)に乗換えた ところがこいつがとんでもない食わせ物でOH済みとは言え青白い煙を吐くポンコツだった 結局当時品川プリンスにあったスポーツコーナーに持込んでエンジンのOHを施す事に バルブは24本全部交換シム調整をバルブの頭を削っていたそうでOH済みの言葉に騙された俺が馬鹿だった また暫くしてミッシォンのシンクロが終わってしまいこれもOH 金の掛かる車だった
しかし完調になったGTRは乗り応えのあるやつだった ステンレスのタコ足からデュアルマフラーを経て吐き出されるエキゾーストノートは当時排気ガス対策黎明期の車ばかりの中にあって際立っていた 今でも忘れない明治通り表参道交差点の先頭で信号待ちをしていると横断歩道を歩くおのぼりの兄ちゃん達がスゲースゲーと言いながら通り過ぎて行ったことを 当然俺は優越感を与えてくれたお礼の気持ちを込めて青信号と同時にフルスロットルで発進加速S20エンジンの咆哮を聞かせて差し上げた 多分感動していた事だろう と思う
GTRとの甘い生活は諸般の事情により1年で終わりを迎えた(マンションの頭金に姿を変えた)その代わりの車が先輩から貰ったホンダクーペ7 空冷ドライサンプの四輪屋根付きオートバイ(俺はこいつを自動車と認めない) 9千回転位まで回すと気分はレーサー但しコーナリングは最悪であくまでも直線に限られてた アルミ製フィン付きオイルタンクは素晴らしい出来だった こいつは半年も乗らずに人にあげた(猿にはあげないだろ)
GTRを手放す引換えとして大蔵大臣に懇願して近所のバイク屋で見つけたCB750Fzを手に入れた これが俺のバイク復活第一号となる記念のバイクだ
こいつが家にきてからは俺は猿のように箱根通いをした とりわけ椿ラインはお気に入りで一日何往復もした
2年近く乗って車検が迫った時同僚が車検たっぷり付き同じCB750Fを手放すというので乗換えた 程なくしてヨーロッパでボルドールが発表されると俺はこいつがどうしても欲しくなった しかし当時逆車はべらぼうに高くとても手が出ない そこで俺は自分のバイクを実家のガレージに持込みエンジン・タイヤ・フレームをばらばらに切離した 持ってた工具モンキースパナと数本のメガネだけで ばらしたフレームやタンクとバイク雑誌を抱え近所の板金塗装屋に持込み俺は頼んだ この雑誌に出てるバイクと同じ色に塗ってくれと
組みあがったCBはまんまボルドールだった 早速日曜日の筑波山パープルラインに行った(この頃はまだ二輪通行禁止ではなかった) まだ逆車も販売されていないので注目の的になった 俺は鼻の穴を膨らませて製作過程を説明した
ところでこの時乗っていた車はというとスバルレックス550 新車で買った 始めてのエアコン付き車 という訳で本日はここまで